ぬばたまの

 俺は今二つ苛ついていることがある。

 その苛つきの原因である白い塊を一瞥し、幾日か前の父との約束を反芻した。約束の場所は西市の程近い、八条大路と西大宮大路の交わる所。約束の時刻は申の刻三つ。相手は父と、父の知り合いだという一人の人。

 約束の時刻よりも少し前にその辻に着いた時、上から下まで真っ白い衣で身をくるんだ一人の人がいた。それがその人の体型なのか分からないが、その衣の輪郭は随分とずんぐりとしていた。こちらに気がついた風ではなかったので、正面に回ってみた。

 正面に回ると鼻から下も白い布で覆っていて、手にも布が捲いてあった。怪我をしているようでもなさそうだが・・・・・・。話しかけたら今まで俯いていたらしく、白い布が揺れた。こっちから見れば俯いていようがいまいがあまり関係ない。どう見ても夕暮れに浮かぶ白い塊にしか見えないのだから。

「人違いであったら申し訳ございません。父、賀茂忠行の知り合いとお見受けいたしますが・・・・。」

 白い布が縦に動く。しかし言葉はない。――話せないのか?そんな疑問を胸に、俺は目の前の塊に話せないのか問いてみた。すると戸惑ったような気が解放され、俺の方に流れ込んできた。今まで気すら感じさせもしなかったのに。これが苛つきの原因の一つだ。もう一つは約束をした張本人が時間になっても現れないことだ。いつも俺には時間厳守するように言っているくせに。

「私は忠行の息子で保憲と申します。同行するのが童だと聞いてはいませんでしたか?」

 その背丈の変わらない白い塊に、俺は少し自虐の意を込めて自己紹介をした。今度は布が横に揺れた。一応俺が同行すると知っていると見ていいようだ。

「今回妖物退治に同行せよと聞いておりますが、そんなに手強いんですか?」

 今度は縦に動いた。最近都を騒がせている存在の話は聞かないし、都の外にも陰陽寮を頼らなければならないような手強い妖かしがいるとは思えない。尋ねたところで答えてくれそうにないだろうが、敢えて聞いてみた。

「誰の命なんですか?」

 今度は躊躇いの雰囲気すらも出さなかった。更に追求しようと口を開きかけた時、よくよく知った声が背後からした。

「私個人の問題だよ。遅れて申し訳ない。保憲、事の詳細は後で話す。急がねば時間がない。」

「親父が遅れてきたくせに!」

 俺は抗議するが、父は白い塊に頷きかけると俺を無視して走り出した。それについて行く白い塊と俺。走りながらそれより個人の妖物退治ってなんだ?と考えた。父のことだから様々な理由が考えられたが、だったら俺を連れて行く理由は何だ?

 遅れまいと二人を追う。速度を落とさず夕暮れ時に羅生門を抜けていく俺等三人は、見ている人がいたらさぞかし奇妙に見えるんだろうな。

 前を行く二人は俺に構う様子もなく、走り出した時と同じ速度でどんどん駆けて行く。途中桂川を渡り脇道に入り、山の奥へ奥へと進んで行く。半月よりも少しふっくらとした八日月の御陰で比較的周囲の状況は読めた。ただ、結界も感じられず妖物の気の欠片すらも感じられない場所に、本当に二人が言う存在がいるというんだろうか。らしくもなく、俺は少し不安を覚えた。

 そのうち足場が悪くなり、徐々に二人の速度が落ちてきた。晩春のまだ肌寒い夜とはいえ、かなりの距離を走ってきた。俺は汗ばんでいた。そして衣や髪が重いのはそれだけの所為ではなく、たっぷりと湿気を含んだ春山の夜の雰囲気の所為もあった。それにも関わらず、目の前の白い塊は被っている衣を取ろうとはしなかった。

「保憲。お前は何か感じるか?」

 歩くくらいまで速度を落とした親父が、突然振り返って問うてきた。一体本当に何なんだ?あまり面倒な事は勘弁してほしいんだけれどな。

「いいえ。」

 俺の答えを聞いた親父の顔が、明らかに困惑の絡んだ表情になったのを俺は見逃しはしなかった。若しかして俺って、親父の期待に添えていなかった?

 黙りこくる俺を他所に、親父は小さな結界を形成すると俺をその中に入れた。

「足手纏いか。役立たずで御免。」

 居心地の悪さを感じながら俺は親父に謝ったが、親父は意外なことを口にした。

「お前は元々戦力外だ。ただ、この気を感じられないとなると話は別だ。せめて自分の身だけでも守ってくれ。」

 そういって俺に背を向けようとした親父を白い塊は引きとめて、俺の方に向き直ると隠しからこれまた白い布を取り出して目の前で広げた。術師が使う独特な香に似た匂いが辺りに広がる。それから俺を包むようにその白い布をかけると、親父の方に向き直った。そして二人は遠ざかっていった。後には月明かりの結界の中、白い布に包まれた俺だけがぽつんと残された。

 戦力外なら何故俺をこんな場所に誘った?この気が感じられない。そう親父は言ったが、一体どういった気がここにたちこめているというんだ?

「!?」

 二人が去っていった方向から地響きがしてきた。何かいるのは間違いない。俺は親父の結界の内側から兎に角外の気配に意識を集中させた。思った以上に焦っているのが自分にもよく分かった。目を閉じて呼吸を落ち着かせ、先ずは二人の気を探ることにした。が、失敗に終わった。

「見ぃつけたぁ。」

 ねっとりとした声が耳元で囁かれた。いつの間にか何かが結界の中に入り込んでいた。いや、正確には結界を破界して背後から首筋にまとわりついてきていた。実体から抜け出してきたようなものだと直感的に判断した俺は咄嗟に白い布でそれを振り払うと、二人が去った方へと走った。驚きはしたが恐怖はない。幼い頃から人にあらざるものたちというのを見てきた所為もあるんだろうな。

「ねぇねぇ、どこに行くのぉ〜?」

 さっきよりも遠いところから煩わしい声が耳に届く。が、その嫌な気は増えてきているように感じる。つまりこいつの本体が近いということか。

 地響きとは違った大きな音が響き渡り、辺りが一瞬明るくなった。そして焦げ臭くなる。その明るくなった時に二人と対峙していたものが見えた。三歩(五メートル)はあるかと思しき蜥蜴のようなものだった。そして俺がそれを認めたように、向こうも俺を認めたのか口の端が僅かに上がったように見えた。戦いの最中に余所見をする余裕があるということは、この戦況は不利なのでは?との思いがよぎった瞬間、そいつは視界から消えていた。

「保憲っ!!」

 親父の声、大地と親父の身体に挟まれ衝撃を受ける身体、続く土埃を伴った強烈な風、地響き、そして妖物の傷から飛び散ったであろう体液。松重の狩衣とそこからはみ出た俺の浅葱色の水干服からしゅうという音が立ち、音源が消滅した。何が起きたのか一瞬理解が出来なかったが、妖物が飛んで俺を潰そうとしていたのを親父に助けられたということだけは理解出来た。それから闇を切り裂くような絶叫で我に返った。

 見ると俺にまとわりついていたであろう別のものが白い塊によって滅せられていた。白い塊の手には札が握られていた。それを今俺の目の前にいる妖物に投げつけるのかと思いきや、それをしまう。会った時と変わぬ出で立ちで立ち回っているらしいが、本当にこいつは見えているのかとすら思う。

「下がっていなさい。」

 引きずられるようにして立ち上がると、俺は妖物から距離を取った。今までなかった恐怖とは違ったおそれが湧き上がり、じっとりと冷たい汗が背を伝う。俺が弱いからこの気を感じないのではなく、本能的にこの気を感じないよう感覚の方がわざとこの気を無視しているのではないだろうか。そんな考えが頭を掠める。

 自分の身を守る為、場ではなく自分自身に結界を纏わせるよう気を練り始める。状況が状況であるので目を閉じるわけにもいかず、半眼の状態で意識を集中する。ちらっと瞳の表面に映った妖物と積極的に対峙している親父の姿。集中しなければならないと思いつつ、白い塊の姿を捜す。白い塊は積極的に交わろうとはせずにその周辺をうろうろしていた。たまに気を逸らそうとはするものの妖物には無視されていた。気配はするものの力のあまりない術師とそう変わらない白い塊の気。俺の方がよっぽど使えるんじゃないかと思わずにはいられなかった。

 ・・・・・・そういえば、親父がこういうふうに妖物と物理的に戦っているのを初めて見た気がする。俺の目から見ても親父は物理的な戦闘向きじゃあない。それにあれとは知り合いで、指示や文句の一言も言っていない。ということは戦い慣れている?でも一体いつから?俺の知らないところで。ぎりっと噛み締めた下唇に血が滲み、口内に血の味が広がった。

 再び俺の名を叫ぶ親父の声が聞こえた。はっとして俯きかけた顔を上げると、直ぐ目の前に妖物が迫っていた。若しかしてまさか、この血か?恐怖を感じないのではなく、恐怖感が麻痺しているであろう俺の思考の余裕さをうらみつつ、頭だけは守るよう防禦の姿勢を取った。

 衝撃は前からではなく、真横から来た。しかもそれは妖物からではなく、白い塊からだった。俺は弾き飛ばされ、俺がいたところに白い塊が立つ。刹那、妖物が発した炎に包まれるそこ。時間にして大した事はないのだろうけれど、全てがゆっくりと展開し、俺の目に焼きついてゆく。

海波みなみ!」

 白い塊の名は「みなみ」というようだ。炎を割るようにして派手に白い布が取り払われる。そして炎の着いたままの衣を妖物に投げつける。振り払おうとした妖物に向かい、そいつは妖物に対して手招きとは逆の仕草をしてみせる。

「!!」

 立ち上がった俺は唖然とするしかなかった。

 耳をつんざくような轟音と共に強大な火柱が妖物に立った。月の光に反射して、森の中から半円よりも少し円に近い光の筋が見て取れた。線の繋がっていないところにそいつと親父が立った。

 光の筋は妖物に伸びて捕縛しにかかっているようだった。そいつこと海波の口が動いているのが見える。つまりこの術を操っているのは海波ということになる。燃えて熱さにのたうつ妖物にとどめを刺すべくか、親父が一枚の札を取り出し、呪を唱えながら妖物に投げつけた。連続して骨が折れる鈍い音が響き渡る。焼け焦げていく肉と脂の臭いと合い混じって、俺は気分が悪くなった。平然としている二人、特に自分に近い方にいる顔色一つ変えない海波の横顔を見つめた。どれだけ重ね着をしていたのか分からないが、露わになった細めの体型がまとっていたのは白桜襲ねの狩衣だった。そこにこぼれた黒髪が月の光を浴びて艶やかな光を放っていた。そして俺はあることに気がついた。

 ――瞳の色が青い。

 親父の弟子の一人、俺と同じように見鬼げんきの力を持つ子がいる。嘗ての陰陽頭こと安倍御主人あべのみうしの子孫、賀茂家では安倍童子と呼んでいる子の瞳も青味がかった不思議な色をしているが、こいつの、海波の瞳はそれとは比較にならないくらい青かった。月明かりの下とはいえ、夜ですらはっきりと青と認識出来るのだから、昼間見たらもっと・・・・・・。

「終わったか。」

 その言葉と共に光の筋が全て消え、強風が巻き起こる。炭化した妖物の遺骸は形を保てず崩壊し、夜空へと散っていった。それを見届けた後、俺は改めて二人に向き合った。

「どういうことか説明して欲しそうね。先ずは下山しましょう。忠行様、参りましょう。」

 夜空に何かの形代を飛ばしつつ、有無を言わせぬ口調で海波が言った。そして振り返りもせずさっさと山を下っていった。

・・・・俺の目、おかしくなければあれは女だよ、なぁ。停止しかけた思考を抱えたまま、俺は親父に促されてそいつの後を追った。



 俺は親父と共に湯殿にいた。一般的な湯殿ではなかったのでためらった。親父は慣れた様子で湯帷子を纏ったまま、ざぶっと湯が溜まっているところに身を沈めた。俺もそれに倣う。

「怪我がなくて何よりだ。して、何やら納得行かぬようだな。」

こういった俺の態度を予め予想していたのか、親父はちょっと優越感を湛えた表情で俺に声を掛けた。

 ・・・・確かに分からない事だらけだ。下山する前海波が飛ばしたものが式神の類という事は、本人が目の前で説明してくれたから判ったが、海波自身と親父の繋がり、そしてこの八条にある自邸の造り、そして何よりもこの居住空間の異様な雰囲気、何もかも理解出来なかった。

「聞きたいことが山ほどあるよ。」

 溜息をつくかのような俺に呟きに、親父は「御本人にお聞きするいい。」としか言わなかった。その後拒否する俺の言葉なんぞ全く耳を貸さず、親父は俺の髪を解いて遠慮なく洗い始めた。子供じゃあないと抗議したところで聞き入れられないのは分かっていたので、俺は仕方がなく素直に洗われるがままに任せた。

 湯殿から上がり用意されていた直衣をまとうと、いつの間にか俺達の前に人の形はしているが人ではないものが目の前にいた。手に灯りを持っていることから案内あない役だと分かる。俺達の姿を認めた後、背を向けてゆっくりと歩き始めた。

 通された場所には海波がいた。葉桜襲ねの狩衣を着ていたが、下半身は白い布で覆っていた。対面に置かれた畳の上に親父が腰を下ろしたので、俺は右後ろに座した。

「御陰様で無事終わりました。有難うございます。」

「礼には及ばん。それより大分辛そうだが、大丈夫か?」

 丁寧に頭を下げようとする海波を親父が遮る。話は見えないが、心なしか海波の顔色が青かった。瘴気にやられたんだろうか?と思ったのだが、それは直ぐ本人によって否定された。俺がその言葉を聞いた時、頭痛がした。

 海波は月忌みだった。そしてこの身体の方があぁいった血を好む類のもの達を引き寄せやすいとも説明してくれた。ただ、そのままだと血の匂いが濃過ぎるので香を濃くまとって誤魔化していたのだとも説明してくれた。それで俺は自分が襲われたことに納得した。

「そういえば、名を名乗っていなかったわね。橘海波と申します。以後お見知りおきを。」

 そっけなく言うと、俺も一応名を名乗った。雰囲気はともかく、物言いや態度に人間味がなくて親しくなれそうにないな。と感じた。そういった態度には慣れっこなのか、親父は柔和な表情で俺達のやり取りを聞いていた。尤も腹の中で何を考えているかは分からないが。

 沈黙を挟むことなく、次に親父から何故今回この妖かしの退治に誘ったかを聞かされた。

 宮中の術師も市井の術師も相手に出来ない妖かしの存在を知って欲しかったからだと親父は言った。それに対して俺は間の抜けた返事しか出来なかった。疲れと眠気で頭がぼぅっとなってきている所為だとすぐ分かったが、どうする事も出来なかった。

「御子息は眠そうね。忠行様。」

 海波が何事か言っていたように聞こえたが、その時既に俺の意識はなかった。次に意識がはっきりとした時、視界は自邸の天井で占められていた。まとっていたのが昨晩の湯上がりに袖を通した直衣だったので、昨日の出来事が夢じゃあない事は分かった。例え借りた直衣を着ていなくとも、あんな衝撃な事を忘れるほどまだ頭は老いさらばえていない。それは断言出来る。

 むくっと起き上がると、近くに親父がいたようだ。声を掛けてきた。朝の挨拶もそこそこに、俺はどうやって帰ったのかを尋ねた。すると親父は仮寝をさせてもらい、夜が明ける前に海波の式神に送り届けてもらったと説明し、海波の月忌みが明けたら改めて二人で訪問する旨を伝えた。それまでに質問したいことを整理しておくようにとも言われた。

「あんな女がいるなんて信じられないよ。」

 正直な感想を口にした俺に、親父は笑って言った。

「どうせ嫁の貰い手なんかいないから。と開き直っているからのぅ。少し性格はきついが、なかなかに美人だぞ。」

「少しぃ〜?どこがぁー?」

 俺は昨日の人間味のない態度を思い返す。それと聞けば親父と海波の付き合いは長く、共に妖物退治をしていることも多いと知った。

「ところで、昨日の相手に出来ないっていう意味が分からないんだけど。」

「力量不足で歯が立たないということだ。お前も見たろう?相手に悟られないように、あれだけの力を練られるか?」

 俺は昨日の戦いを反芻する。確かに海波からはあまり力を感じなかった。けど、俺を弾いた後とんでもない威力の術を発動した。そして親父が妖かしと対峙している間、動きを動きを封じるための結界のようなものを張っていた。それも恐らく発動させる術を練りながら、だ。

「無理だね。というよりも、人間じゃあ無理だよ。」

 人間じゃあ無理?なら海波は人あらざる者なのか?ふと思い浮かんだ俺の疑問を、親父は霧散させた。

「彼女は力が特出し過ぎた人間なのだよ。お前やそうだね、安倍童子はかなり特出した人間だ。ただ、彼女等はそれを上回る。それが故にあちら側に近いのだよ。」

 憂いと優しさと慈しみと、あまり見せることのない表情で親父は言った。その視線の先は何を見ているのか、俺の方には向いていなかった。視ているのは海波の行末か?

 親父がふと俺の方を向く。そして敢えて言葉にするならと前置きして、言葉を紡ぐ。世の理の均衡を崩す程の力を持つが故に弑殺しいさつされても致し方がない存在。手に負えない存在を抹消させる為だけに生かされている理性ある混沌。私等は「カゴメ」と呼んでいる。その言葉と同時に宙に描かれる逆五芒星。普通籠目といったら正三角形とその逆を組み合わせたものの筈・・・・・・。

「徐々に知っていけばいい。今日は休んで静養するがいい。」

 そういって親父は立ち上がった。宮中の術師であるけれども、昨晩の妖かしにとどめを刺せたのは海波が居たからなんだろうな。徐々に知って行けば良いとは言っていたが、何だか知りたいような知りたくないよな。そんな気分だ。まぁ、あまり気が進まないけど海波に会って疑問を解消する他ないよな。はぁ・・・・・・面倒臭い。この一言に尽きるな。



一体どうしてこういった事態になったんだろうか・・・・・・・。

 海波の住む八条にある邸宅の中庭で、俺は七尺ばかりの木製の棒を持って、同じく木製の棒を持つ水干服姿の海波と対峙していた。直ぐ傍で親父がにやっとした少々意地の悪い笑いを浮かべているのが気に食わない。

 確か、尋ねた時に海波が中庭で式神相手に棒術の練武をしていて、俺がうっかり武の嗜みもあるんだと口を滑らせたのが始まりだった。それを聞き逃さなかった親父は「なら手合わせしてもらえばいい。」とあっさりと言い放った。俺の返事を待たずして、海波は「面白そうね。」と言って俺に棒を投げてよこした。攻撃的な妖物を相手にすることもあるから俺も多少武術は心得ているが、何でよりによって女人を相手にしなきゃならないのか。それに海波の実力の程を知らないとはいえ、負けたらそれはそれで悔しい。

「あ、言い忘れていたけど、手加減いらないから。」

 にこっと微笑んで言う海波。無性に腹立たしい。こっちの怒気を煽るつもり算段らしいが、その手には乗らない。状況に対して冷静な判断を下す事に関しては誰にも負けない自負がある。

「そんなつもりは始めからありませんよ。」

「それは重畳。」

 爽やかに言い返したことに対して、海波の空の青よりも青い目が細まる。真っ直ぐな黒髪といい、健康的な白めの肌といい、親父が言うように美人ではある。一見は。

 すっと海波が構えを取る。つられるように俺も構えを取った。さて、どこから攻めるべきだろうか。と呑気に考えていたが、空気を介して指先に伝わってきた気を感じた途端そんな考えは霧散した。容赦なく打ち込まれる一撃を受け止めて、俺は悟った。やはり女人であるが故に力はないものの、繰り出すその一撃一撃に術を乗せているのが分かった。防禦して攻撃を遮ってもその衝撃は残る。その衝撃を足場にして、乗せられた術が俺の身体に伝わってくる。それだけならまだ良かった。俺が繰り出した攻撃を海波が防いだ時に発する衝撃にも、海波は術を乗せてきていた。親父がにやにや笑っていた理由がよく分かる。俺は全力で反撃に転じた。

 性格の悪さというのはその人が扱う技や術にも反映するらしい。海波が、防禦の際に生じる衝撃に術を乗せなくなったので、恐らく油断したというのもあるのだろうが、衝撃を生まないように受け流された一撃を最後に、俺は地面に膝をつく羽目になった。

「勝負有りじゃの。」

 からからと親父が笑う。俺は海波から食らった一撃で一瞬止まった呼吸を整え、親父を睨んだ。視界が歪み脂汗が滲み出て来るのが自分にもよく分かった。

「最後、油断したでしょう。」

 腹部を押さえている俺の手に海波が手を重ねてくる。そんな海波に俺は一つの疑問を持ち出した。親父とはやらないのか?と。親父とて武術の嗜みがあるとはいえ、得手とはしていないはずだ。この際だから意趣返しくらいさせてもらう。

 重ねられた海波の手から、温かい気が発せられる。痛みが和らぎ、呼吸が楽になっていくのを感じた。俺の腹部に目をやったままの海波を一瞥し、次に親父に視線を投げた。

「忠行様と?忠行様。如何致します?」

 手を当てたまま、くるりと首を反転させて海波が親父に問う。その言葉からするに過去に幾度か手合わせをした事はあるようだった。俺はちらりと盗み見るように親父の方に視線を流した。少し困惑したような表情で顎鬚をいじる親父の姿がそこにはあった。どうやら都合が悪いらしい。

「俺にはさせて、自分はしないてか。」

 少し挑発を含んだ物言いに、親父ではなく海波が反応した。すっと立ち上がって俺から離れ、険を含んだ冷たい目で俺を見下す。その感情の感じられない目から視線を外すことなく俺は睨み返した。やはりこいつは好きになれそうもない。

「速さがあり幾ら技に術を乗せられるといっても、力は女人のものだ。現に幾度か骨折させているのでな。気が進まないのだよ。」

「私は構いませんよ。実戦の方が過酷ですから。」

 海波を制し、親父が話した理由に俺は少なからず衝撃を覚えた。確かに俺や性別を問わず弟子には厳しいこともある。ただそれは座学の時や術に関してだ。そもそも親父に武の嗜みがあるなど一体誰が知りえようか・・・・・・。そんな親父が俺と歳の変わらない相手を骨折させるような怪我を負わせていた。ましてや相手は女人だ。俄かに信じられなかった。

「だがのう、なるべく傷は残したくないという心境を察してはくれぬか?」

 どちらに言うともなく、親父は言う。海波が俺の方に視線を向ける。決定権を俺に持たせたようだ。この二人の試合を見てみたい気もするが、死合いに発展しても何ら不思議はなさそうだった。だから俺は要求を取り下げた。

「優しいのね。」

 聞こえるか聞こえないかくらいの海波の硬質な声が俺の耳に届く。どうしてこいつはこうも自虐的なんだろうか。もっと自分を大切にしろよと説教の一つでもしたくなる。

「"我等が酌人サーキーがした事は全て正に恵み"。それが心情。哀れんでくれなくても結構よ。」

 俺達にすいっと背を向け、海波はその場から去っていった。別に哀れんだつもりはないんだがな。一体何を勘違いしたんだか。それに心情と言われても、俺には何が何だかさっぱり分からん。そこで俺は親父に目を向けた。

「彼女が今言ったのは西方の言葉で、"運命を甘受し、恵みと思え"という意味だ。保憲、お前は海波を説教をしたくなる自虐性を持った者と一瞬でも思っただろう?」

 不機嫌な声で半ば投げやりに俺は肯定した。胸中を言い当てられ、何となく面白くなかった事に加え、海波は相手の、つまり俺の理解度に合わせて話をしなかった。つまり俺を馬鹿にしている可能性が高い。それも癪に障った。

 親父は一度俺の意識を引くように指を立てた。それからしっかりと俺と目を合わせた。だが、答えが親父から発せられる事はなかった。

 いつの間にか何かを煎じた熱い飲み物と、おにぎりを盆に乗せて海波が戻ってきた。そして濡れた布巾を手渡し、語り始めた。

 自身の容姿と力は、この世で生きていくには非常に不利だと。容姿は言うまでもなく、この力が故に世界の均衡を崩しかねない危険を常に孕んでいるのだと。つまり存在しない方が世の為。だが、自然の歪みや人為的に作り出された力の暴走が生み出した、人に有らざる存在を相殺するには自然と力が特出している者ではないと対抗出来ないこと。感情を交えず海波は俺に語って聞かせてくれた。

「あ、知らなくて当然よ。忠行様のような方々に力をお借りする事はあるけど、基本的にカゴメと括られている存在で全てに対処するし、闇から闇へと葬られる事だから。」

 カゴメの存在が人の世に知られようものなら、絶対悪用される。それが故にカゴメと言われている人達は自身の死と引き換えに、自分の関わった全ての人の記憶を消し去る能力を備えている。と海波は更に説明してくれたが、何故カゴメというのかまでは知らないと言った。それに対して「囲む。」が訛ったものかもしれないと意見した俺に、案外そうかもね。と海波は笑いながら答えた。こいつの、こういうところは素直に可愛いと思う。普段があれな分、余計そう感じる。

「ただ生きてゆく事が出来ないけれど、逆に生きているという実感がとても強いの。だからこの容姿も力も私にとっては恵みなの。誰かがやらなければならないことだしね。」

「誰にも知られず、名も残らずだと虚しくならないのか?」

 俺の問いに、海波はきょとんとした表情で答えた。

「国史において、名を残さない人間の方が多いのよ?それに名を残す為に生きているわけじゃあないもの。」

「自己顕示欲と無縁でなければ務まらないということか。」

「そのようなものを持っていたら、先ず他のカゴメに記憶を消す為と今後の支障を考慮されて殺害されるわ。」

 それから海波は続けた。容姿に問題ないなら、カゴメとして括られていても力を使うことを放棄して、普通の人として生活出来ると。でも自分は無理だから、とも。そこで俺は素朴な疑問をぶつけた。――そこそこの身分の者になれば人目に触れる事は殆どないと思うが?と。すると海波はそこまでが大変ということを言ってから、仮にそうなったとしても男児が生まれたらどうするの?と返してきた。その答えをもらった俺は、素直に感心した。

→戻る